気がつくと東京に来て7年が経ってる。
大阪での生活を変えようと出てきて。。
大阪で一緒に暮らしてた元夫はきれい好きで料理も上手でとても優しい人だったけど、なぜかどうしても働いて家にお金を入れることをしない人だった。
わたしが稼げばいい話なんだが、結婚当初、娘が生まれた時には、夫に働いてもらいたいと思って思いきってわたしは仕事をばっさり辞めてしまった。
夫にプレッシャーを与え追いつめたわけなのだけれど、それから何ヶ月も、夫は毎日仕事を探しに行って(るフリ?)は見つからないと帰ってくる日々で、すぐに生活ができなくなり、わたしの実家に生活費を毎月借りるようになり、子どもが1歳になるころにはわたしは週に2日から働きはじめ(子どもが小さいからと夫にプレッシャーを与え続けるためわたしが稼ぎすぎないようにと)、仕事を始めるとお客様も増えて毎日働くようになったのだけれど、それでもこのまま夫が働かないのでは困ると、生活困窮者の枠から出ないようにつとめてつとめて(どんな努力だ)、夫はつく職がないのならと、料理人経験もあり、バリ島でバリ屋台料理を覚えて帰ってきていたのもあって「インドネシア料理店」を一緒に立ち上げた。
当時はアジア料理のお店もそんなになくて、
お店はそこそこ当たって大阪では由緒のある料理雑誌の取材を受けたりもしました。
なのに、お店はじめて何ヶ月かしてバリ島に食材の仕入れに行ってくると言っては、3カ月も帰ってこない、やっと帰ってきてお店再開しても、すぐに閉めてどこかへいなくなってしまう。
生活のために働くということがよほどしたくない何かが夫の中にはあったのでしょう。
なので、実家に子育て助けてもらいながら、わたしはわたしの美容の仕事を続けていたのだけれど、頼みの母が突然亡くなり、保育園も卒業で、小学校に上がると子どもは放課後は帰ってくる。
困ったところに、元美容室の場所にテナント募集の看板。こぢんまりとしたひとりではじめるのにちょうどいいスペース。
そして子どもが学校から帰ってこれる場所としてお店をオープンした。というところまでは以前のブログに書きました。
そうして、小学生の母親をしながらお店をして、まあそれなりにやっていたのだけれど、わたしが上手くいってると夫は戻ってきて居着くようになる。
もうその頃には料理店は閉めてしまっていた。
母を亡くした父のそばに住み、父とお互い支えになりながら、わたしはお店もはじめたし、生活困窮者ではいられないと、あきらめて、しょうがない、一家の養い手となりましょうとなってました。
それが3年経って今度は父が突然亡くなってしまう。
その後娘が6年生になる頃何かの拍子に「東京にいきたい」と言い出した。
いやいや、お店もやっているし、無理無理、とかわしたのだったが、一晩寝て起きると、
「それもいいかな」と思ったのです。
生活を変えたい、変えられるかもしれない。
もうお父さんもいないし、ここにいなくてはならないことはない。
一緒に暮らしていた夫は別の部屋で寝ていてその部屋はとにかく「要らないもの」で溢れていた。
壊れた電化製品や古い道具や要らない食器類、要らない洋服。。
思えば、きっと申し訳なさや不安から物をたくさん抱え込んでしまっていたのかもしれない。
とにかく、そんな要らない物を一掃したい、この生活変えたい、と思い、東京行きを決断してしまう。
「娘が東京へ行きたいと言い出した、行こうと思う」
と夫に告げると、「俺は行かない」
そういうと思ってたから。
もしわたし達が東京へ行って、大阪にひとり残った夫がひとりで自立して暮らすようになったら、その時はまた一緒に暮らせるかもしれない。
とにかく自立をしてほしい、それまでは離れようと思ったのです。
要するにずっと夫を変えよう、変わってほしいと思ってきたのでした。
■どうやってサロンの場所が決まったか
東京へ行くと言っても、知り合いもほぼゼロ、頼る人なし。
でも、娘の中学校を決めて、そこに通いやすいところでエリアのリサーチして、でも一体東京のどこに住んだらいいのだろうとあてもなく探していたら、
通っていた整体の先生が、「由利さんは自力で探してすごいですね」というので、
「え?自力以外の何で探すんですか?」と尋ねたら「わたしはここを占いで探しましたよ、結果繁盛してよかったです」
というので、そうか、それもいいな、手当たり次第に知らない土地で、ましてや東京なんて広い中で決められないしな。と、お客さんに聞いてよく当たるという占い屋さんに行って相談しました。
そうしたら地図を広げて言われたのが、恵比寿・渋谷から二子玉川・自由が丘あたりまでの三角のエリアでした。
そうして、また、たまたまお客さんに紹介された東京の不動産屋でこのエリアで探してもらってサロンの場所として見つかったのが、たまたま代官山だったのです。
大阪のお店は閉めてしまおうと思っていたのが、お店を使いたいと言ってくれる後輩が現れて、大阪のお店は残したまま東京は2店舗めとしてオープンすることに。
さあ資金として置いておいたはずのお金が、なんと無い。
夫が使ってしまっていた。
一体どん底はどこなんだ、なんて絶望しましたよ。
でももう後には引けないからと、弟と弟のお嫁さんに相談してお金を借りてそれでなんとか東京に出店、家も借りて引っ越しも済ませた。
とはいえ一寸先も見えない、最悪はホームレスかなって思ってました。
そうやって東京での生活が始まったのが2013年4月のことでした。
まだ離婚はしていなかった、もしかしたらまた3人で暮らせるかもしれない、そうなってほしいとこの時は思ってました。
つづく。。
ほんとうに行き当たりばったりですね。
でも、こう書くと、ロクでもない夫のようですが、たしかにお金の面ではそうだし、社会の仕組みに当てはまらないところはどうしようもないのですが、とにかく優しい人で、綺麗好きで、なんでも器用にこなし、きっと一緒に無人島にいったら困らないで楽しく暮らせそうな人だったのですよ。
そして、わたしはそういう人だから結婚したのだと思う。
なぜか、普通にしあわせになれそうな人とは一緒になりたいと思わなかったのです。
あえて苦労をしたかったのでしょうね。
失敗に飛び込んでみようみようとするのかもしれない。
みんなが選ぶ「安定」というものにちっとも魅力を感じないんですね。
人生はいっぱい失敗したもん勝ち、というのを奥底で感じてて、だったらあえて失敗してみようと思ってるのかもしれません。
絶対に失敗しないようにしないようにと安定を求めてリスクのない人生っておもろいんかな?って思ってしまう。
というのが根底にあるんでしょうね。
失敗は成功のもとっていうじゃないですか。
成功のもとは多いほうがいいやん。
失敗だとしてもそれで終わりではなくてそれがあるからこその、その先につながる。
失敗は結果ではなくてプロセスだ。
だから、わたしは失敗を恐れず飛び込むのだと思う。
だから、直感で動けるんだと思う。
どうせ最後は死ぬんやし。
それまではずっとプロセスが続くだけ。と
大いなるおはからいに委ねていける。
子供のころからよく「宇宙人だね」って言われてました。
たしかに地球文明のルールが当てはまらないところがあるかもしれないです。
でも、地球文明のルールははてな?と思うところがあるけれど、
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